非核非戦

■1945年8月9日11時2分、長崎上空に飛来したB29「ボックスカー」より投下された一発の原子爆弾によって、長崎は一瞬にして「死の街」へと変貌しました。その時の死者は、約15万人とも言われています。

■累々と横たわる亡骸は、その多くが荼毘に付されたものの、その後長らく野ざらしになったものもあり、また荼毘には付されたものも、お骨の状態で放置されていたものも多くあったと聞き及んでいます。そして、多くの亡骸を荼毘に付し、放置されていた場所のひとつが、現在の松山陸上競技場だったそうです。 

■原爆投下の翌年、進駐軍が松山陸上競技場に飛行場を建設することとなりました。このままではお骨が重機に踏み潰されてしまう、と危惧された人々が立ち上がり、進駐軍に飛行場の着工をしばらく待たせ、その間にお骨を収集しました。その後も、お骨が見つかるたびに納められ続け、今では1万体とも、 2万体とも言われるお骨が、ここ長崎教会の「非核非戦の碑」に、収められています。

■しかし、この収骨所は、決して原爆で亡くなった方々の「慰霊」のために建てられたのではありません。ヒトを殺さねばならなかった、戦争をせねばならなかった、そして原爆を造り落とさねばならなかった、すべての人間の「無明」が、私の「愚かさ」が明らかとなる「場」として、この収骨所はあるのです。

■国籍も、出身地も、名前も、年齢も、性別も、まったく分からない人々が私たちに尋ねて下さるのは、「共に生きよ」ということです。それ故、他者にはたらきかける「反」をも内に抱き、自らのうちに問いかける「非」ということばをもって、碑文としました。


是非一度、お立ち寄り下さい。

被爆者納骨所ができるまで

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